性暴力の根絶を目指して


「生命(いのち)の安全教育」を知っていますか?
「生命(いのち)の安全教育」とは、子どもが性暴力の被害者、加害者、傍観者にならないために、文部科学省が2021年度から推進しているプログラムのことです。生命の尊さを学び、発達段階に応じて自分や相手を尊重する態度を身につけることを目標にしています。
背景には、性犯罪の厳罰化などを盛り込んだ2017年の刑法改正を受け、子どもへの教育の必要性が議論されたことがあります。その後、政府が2020年6月に発表した「性犯罪・性暴力対策の強化の方針」の中に「生命(いのち)の安全教育」が盛り込まれました。2021年4月に、内閣府と文部科学省が連携して作成した「生命(いのち)の安全教育」のための教材や指導の手引きを公表。2021年度から一部の学校でモデル事業を実施し、2023年度から全国の学校での展開が始まっています。
「このプログラムについて初めて知った時は、こんな素晴らしい取り組みが行われているんだと驚きました」と話すのは、文部科学省 総合政策局 男女共同参画共生社会学習・安全課長の中園和貴さん。2024年から「生命(いのち)の安全教育」の推進・普及に携わっています。
「生命(いのち)の安全教育」では、小学校低学年でプライベートゾーン、小学校高学年でSNSの使い方を、中学校・高等学校では性暴力やデートDV、性的同意など、発達段階に応じた内容が盛り込まれています。スライド教材や動画教材、指導の手引きなどは、文部科学省のウェブサイトから自由に見たりダウンロードしたりすることが可能です。
印象的だった、授業中の子どもたち


「生命(いのち)の安全教育」の最終目標は、性被害の根絶。と同時に、社会の中で生きていくうえでの大事な基盤も学ぶことができる、と中園さんはいいます。
「基盤となるのは人権教育。自己や他者を尊重することをはじめ、自己と他者の間の適切な距離や関係性など、性暴力防止の土台となる考え方が盛り込まれています。さらに、心身が危険な状況にさらされた場合、その状況に気づいて嫌だと伝える、その場から逃げる、信頼できる大人に相談するという、いわゆる“No, Go, Tell” といった性暴力への対処法についても具体的に学んでいけるような内容になっています。
このプログラムは、発達段階に応じて継続的に学んでいけるのが特徴です。一度きりで終わりにするのではなく、幼稚園、小学校、中学校、高校と、連続して学んでいくことによって理解がより深まっていき、性暴力に対処する力も身についていくと思います」
「生命(いのち)の安全教育」を授業に取り入れている学校の視察をすることもあるという中園さん。そこで印象的なのは、子どもたちが生き生きと反応していて、授業に活気があることだといいます。
「たとえばデートDVについて学ぶ授業を視察した時。教材になっている漫画を読んだ生徒たちから『いくら好きでもこんなに束縛したりするのはだめだ』という声が出たり、防止するためにどうすればいいのかを話し合ったりと、教師の投げかけに対してよく反応していました。発達段階に適した内容を、ちょうどいいタイミングで学んでいくからこそ、子どもたちも意欲的なのだと思います。
また、このプログラムは子どもだけでなく、先生たちも一緒に学ぶことができるものだと感じています。子どもたちが困難な状況にある時にどのように対処すればいいか、どのように接すればいいか。そうしたことを教師側が学ぶという意味でも、とても重要だと思っています」
どの授業で、どんな形で教えるかは自由


「生命(いのち)の安全教育」は、文部科学省が提供している教材があるものの、学校や地域の実情などに合わせて変更することができます。また、現場の先生たちの創意工夫によって様々な授業・教科で教えられることも特徴です。
「たとえば、“学校安全”という切り口で行うこともできます。学校安全には、交通安全、災害安全(防災教育)、生活安全の3領域があるのですが、生活安全の一環として『生命(いのち)の安全教育』を教えるのも一つの方法です。
あるいは、ホームルームなどの特別活動の中で行うこともできますし、保健・体育の授業の中で教えるという方法もあります。ほかにも、学校によっては人権教育の中に取り入れている例もあるようです。このように、取り入れ方の幅がかなり広いのがこのプログラムの特徴ですね。そういった選択肢や切り口が多い方が、現場の創意工夫やコンテンツの広がりにもつながっていくのではないかと考えています。
現場の先生たちは、とにかく忙しいのが現状です。そんな中で少しでも『生命(いのち)の安全教育』を取り入れやすくなるようなサポートをすることも重要だと考えています。たとえば現在、実際の授業風景での実施事例の動画なども公開していますが、さらに例えば特別活動や保健体育の授業に取り入れた際の好事例、安全教育や人権教育の授業に取り入れた際の好事例など、ひとつだけでなく、なるべく多くの実践事例を集めて届けていきたいですね」
ひとつでも多くの学校で実施されるように


教材や手引きを作成して今年で5年、本格的な全国展開を始めてから3年。「生命(いのち)の安全教育」の一番の課題は、まだ全国の学校に十分普及していないことです。熱心に行っている学校もあれば、そうではない学校もあるなど、学校や地域によって温度差があります。
より多くの学校で実施されるようにと、文部科学省ではさまざまな側面からの対策に取り組んでいます。2026年3月には、作成から5年経ったのを機に、教材や指導の手引きの拡充作業を行いました。現場の教師や有識者の声を取り入れながら、より使いやすい形にしたほか、2023年の刑法改正を受けて『性的同意』について教材に盛り込むなど、社会情勢に合わせたアップデートも行っています。
ほかにもどのような形で現場を支援しながらこのプログラムを普及すればいいのか、中園さんも全国の学校をまわり、現場の先生たちの声を聞きながら考える日々です。
「より強力に推進していくために、ひとつの地域において複数の小学校や中学校で実施してもらい、面的な広がりを作っていきたい。そのために『生命(いのち)の安全教育』を実施するモデル地域を作れないかと模索しているところです。
まだ『生命(いのち)の安全教育』を実施していない先生たちに対しては、まずはどんなものなのか、そして現在の性犯罪・性暴力を取り巻く現状についても学んでもらうことが大事だと思っています。そのためには外部講師によるレクチャーも必要でしょう。現在、各都道府県には必ずワンストップ支援センター(性犯罪・性暴力の相談窓口で、医療的・心理的・法的支援などを可能な限り一か所で提供する施設)が1軒はあるので、そうしたところに研修を依頼できるような支援も行っていきたいです。
また、これまで『生命(いのち)の安全教育』に熱心に取り組んできた先生たちの知見を横に広げていくことはできないかと考え、そうした先生たちにアドバイザーのような立場になっていただくような支援も検討しています。
あらゆる方法を通じて、現場の先生たちが『生命(いのち)の安全教育』を進めやすくなるような後押しを行っていきたいと思っています」
もうひとつの課題が、地域や保護者へのアプローチ。いくら学校で教えても、周囲の大人に理解や知識がなければ社会全体として変わりません。この点についても、取り組むべきことはまだたくさんあると中園さんは話します。
「地域に対しては、たとえば公民館などでの生涯学習などを通じて『生命(いのち)の安全教育』について知ってもらう方法があると思います。ほかにも、たとえばPTAの団体にアプローチして、保護者にも理解を深めてもらうなど、学校教育と同時にいわゆる“社会教育”の面でも浸透させていかなければと思っているところです。
保護者の中には子どもが『生命(いのち)の安全教育』の授業を受けたことによってその存在を知ったという人も少しずつ増えているようです。まだ自分の子どもの学校で『生命(いのち)の安全教育』が行われていないという場合、保護者側から学校に対して要望を出したり、導入した場合は応援したりすることも、機運を高める一つの方法かもしれません」
生きていくうえでの力を身につける


「SRHR for JAPAN」キャンペーンでは、「知識としての性教育」に加え、「人間関係」「感情の扱い方」「自己尊重」「性的同意」などを包括的に学ぶ「心と体を守る教育」を推進しています。
「生命(いのち)の安全教育」もまた、性被害から身を守ることだけでなく、1人ひとりの生きる力や他者との関係性など、幅広い力を育むことにつながると中園さんは感じています。
「この教育を通じて、性暴力をはじめ、困難な状況に陥ってしまった時に誰かに助けを求める力、いわゆる“受援力”を身につけることができます。それが引いては自分が困難な状況にある誰かを助けることにもつながるかもしれません。
さらに、性犯罪や性暴力の知識にとどまらず、自己と他者の間の適切な距離や、関係性の構築の仕方についてなど、あらゆる分野での応用がきく、つまり社会で生きていくうえでの土台となる力を身につけられるのが『生命(いのち)の安全教育』です。それが非常に魅力的だし、私もこの取り組みを進める中で面白いと感じているところです。
実際に授業を行っている様子を見たりするたびに、自信を持ってこの取り組みを進めていきたいとの思いを新たにしています。全国どの学校でも『生命(いのち)の安全教育』が当たり前のように行われている。そんな日が来るように、これからも普及に力を注いでいきたいです」




